masaです。
以前の投稿で、
ブログの記事を貯めることを3つのうちの1つに挙げました。
なんで、ブログの記事を貯める必要があるのか?
を改めて掘り下げます。
ブログは、「日記」でも「エッセイ」でも「テキスト」でもない
もちろん、日記しかプログにupしない人もいるでしょうし、ノウハウの解説を中心に書いたり、思ったことを詩とか散文の形式で書く人もいるでしょう。
masaも、今後、日記や解説を投稿することは考えています。詩は書かないかもしれませんが、詩人やその作品に興味を持つことは考えられます。
ブランディングに役立てるために使う人もいるでしょう。
この点も否定しません。masaという人間の評価がブログという媒体によってなされることは、直接会ってアピールすることができない人たちにも伝わるし、会ったとしても短い時間で伝えきれるとは限らないわけですね。
名刺代わりとは言いませんが、じっくり読んで下さった方々には、masaという人間の想いや性格、知見など人物像が形成されている、会った時にmasaのことを知っていてくれたら、めちゃくちゃ嬉しいだろうな、とワクワクします。
「想念」というカテゴリを設けたのは、まさにそのためです。
masaにとって、このカテゴリは最重要であり、カテゴリ欄の先頭にもってきているのはその証左です。今後、カテゴリを増やしますが、先頭は「想念」から変えることは無いと断言します。
露骨な受け売りや、誇張はやらない。
それは、masa自身の性格からくるものでもありますが、
ブログ読んでくれた人が、会ったときに、想像よりショボい人だった、と思われないようにしたいため。
「知の城」 それは、自分の「歴史遺産」にもなる
小さいとき、公園の砂場や海水浴場の砂浜でお城作りましたよね。
あるとき、ふと、それを思い出しました。
たわいもない子供の遊びではありましたが、つくることは楽しいことだったということは記憶します。
中に洞穴つくったり、表面に乾いた砂をふりかけたり、頂上を平らにしたり尖らせたり。
大きさもデザインも、自分の好きなように作れるわけですよね。
ブログを書き続けることって、同じなんじゃないのか、と思ったのです。
自分の想いを自由に表現し、積み上げていく。
構成も数も自由。
気に入らなければぶっこわして作り直すのも自由。
想念、知見、主張などを少しずつ築き上げ、気が付いたらお城になっていた。
「知の城」
それは、自分のいう人間の生きた証でもある
じゃあ、「自分史」でも自費出版したら?などと勧誘が来てしまいそうですが、そうじゃない。
本も一つの「城」の形でしょう、自伝も立派な文学作品ですし、「自分史」で自己の歴史を遺すことも素晴らしいことだとは思います。
でも、masaの感覚では、ブログは「本」の電子化ではなく、建造物なんですね。
今はうまく説明できないのですが、コンテンツ自体は文字や画像という2Dなんだけれども、それらで構成されたひとつのブログは3Dになるイメージなんです。
もし、ブログの一カテゴリをPDFにしても、それは、
形式的には2D→2Dであっても、masaにとっては
3D→2Dへの転写 なのだと。
これは、今もそうですが、書いている時点で、組み立てている感覚があるんですね。
いざ始めたら、基本は、思ったことを反射的に書き連ねるですけど、最初に思いついた時点から、実際に書こうと決意するまでの間に、
頭の中で完成図をイメージしているような感覚がある。デザインといってもいいかもしれない。
ただ、砂の城が波に飲まれて崩れてしまうのとは異なり、
刹那的ではなく、長い間残せる(可能性がある)
ということ。
後で読み返して、気に食わないところは書き換える(リフォーム)もするでしょう。
そして、自分自身の歴史を遺す重要なアイテムにもなり得るものだと。